市民の命を救った明治時代を代表する名庭園
江戸時代の豪商屋敷が、その後大名の屋敷となった際に清澄庭園の原型が造られた。近代化の進む1878年、日本屈指の大財閥、三菱財閥創業者の岩崎彌太郎が買い取り、社員の慰安と賓客接待のための造園に着手し、彌太郎没後、弟の岩崎彌之助が遺志を継ぎ、江戸の伝統様式による美しい回遊式林泉庭園を完成させた。庭園の西側にはジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられ、江戸の伝統と西洋建築を同敷地内に伴う類まれな美しい庭園が完成したが、1923年の関東大震災で庭園は甚大な被害を受け洋館も消失した。しかし庭園は近隣住民の避難場所として多くの人命が救われたことから、彌太郎の息子、岩崎久彌は庭園の東半分を東京市に寄贈、更に1973年に東京都が西半分を買い取り、庭園は一般に開放されるようになった。
三菱財閥創始者が夢に描いた庭園風景
清澄庭園の特徴は、近代化が進む明治の日本にありながら江戸時代の様式にこだわり造られたことだろう。池、築山、枯山水を主体とし、散策しながら移り変わる風景を楽しむ回遊式林泉庭園を採用する。中島のある広々とした池、数寄屋造りのあずまや、山を模した「つつじ山」、彌太郎自身が石積みを考えたといわれる池のほとりの巨石の歩道「沢渡り」など、来客をもてなす趣向にあふれている。池には鯉やカメが生息し、多種の野鳥も見ることができ、四季折々に変化する花々の風景に心癒される。岩崎彌太郎が「憂悶を感ずる時は 名庭園を見る。」と言い、実現を夢見た自身の庭園。その庭園で心穏やかな時間を過ごしていただきたい。