泉岳寺の歴史と「忠臣蔵」
1612年将軍徳川家康が江戸城近くの外桜田に創建したが、1641年寛政の大火で焼失。その後三代目将軍家光により現在の高輪に移転し再建された。境内には7つの伽藍が完備され、全国から多くの僧が学びに来る格式高い寺である。また、泉岳寺は”元禄赤穂浪士事件“で亡くなった47人の浪士たちの墓所としても有名。この事件は江戸庶民の心情を揺さぶり、歌舞伎をはじめとする多くの日本伝統芸能の演目”忠臣蔵”として共感され、語り継がれた。現代においてもドラマ化や映画化、近年ではハリウッド映画”47Ronin”の作品モチーフとなるなど、この物語は愛され続ける。境内には赤穂義士記念館があり、彼らの貴重な遺品が展示されている。
主君に忠誠をささげた47人の赤穂浪士
1701年に起こった元禄赤穂事件は、江戸城内で起こった赤穂藩の浅野内匠頭が、高家である吉良上野介に切りかかった事件を発端とする。浅野内匠頭はその日に切腹、浅野家はとりつぶしとされた。浅野が吉良を切った理由は様々憶測されるが、この一方的な浅野家への刑罰の重さと不公平さに市民は同情し、江戸幕府への不満と共に世論が高まる中、47人の浅野家の家臣たちが吉良上野介への仇討ちに出た。主君への忠誠を果たしたのちに47士らは切腹を命ぜられ亡くなった。その浪士たちの墓が、主君浅野内匠頭の墓とともに泉岳寺に残る。境内には浪士ゆかりの梅の木が移植され、早春の2月には美しい花を咲かせる。毎年12月14日に”赤穂義士祭“が催され、47士のパレードなど、全国のファンが集まりにぎわう。