正式名は日本二十六聖殉教者天主堂
豊臣秀吉に続いて江戸時代の徳川幕府もキリスト教禁止令を継続し、1639年の鎖国令によりすべての宣教師達は国外追放された。しかし幕末に開国の動きの中で、長崎には居留地が設けられ、在留外国人のために1864年に大浦天主堂が完成した。正式名は日本二十六聖殉教者天主堂といい、キリスト教禁止令に基づき1597年に長崎西坂の丘で処刑された26名の聖人へ祈りを捧げるために建てられ、正面は西坂の丘に向けられている。 中世ヨーロッパ建築を代表するゴシック調の国内現存最古の教会堂で国宝に指定されており、聖堂内を飾るステンドグラスは100年前のものも残っている。設計者はフランス人宣教師のフューレ神父とプティジャン神父。完成当時、珍しい西洋建築を見ようと訪れた観光客にまぎれて、隠れキリシタンが多く訪れた。キリスト教禁止令が出てから250年もの間、表面は仏教徒を装いながらキリストへの熱い信仰をもっていた隠れキリシタンがいることが明らかとなった。天主堂内の右側の小祭壇に飾られているマリア像の前で、隠れ信者と神父の奇跡の出会いがあったことから『信徒発見のマリア像』と呼ばれる。入口中央の白亜のマリア像は、日本に多くの隠れキリシタンがいたというビッグニュースが全世界に伝えられ、フランスから記念に贈られてきたもので『日本之聖母』と名付けられた。 また、天主堂の後方にある鐘楼の鐘は第二次世界大戦の被害からも免れ、創立以来ずっと鳴らし続けられている。現在でも昼の12時と夕方6時に鳴り響く。