江戸時代初期(1600年頃)に長崎は貿易の盛んな国際都市となった。外国人商人の中でも中国人が圧倒的に多く、市民の6人に1人は中国人といわれた。当時はキリスト教禁令が厳しく、中国人にもキリシタンの疑いがかかったため、仏教徒であることを示すために多くの唐寺が建てられた。その中でも興福寺は日本最古の唐寺(中国の寺)といわれ、海上の安全祈願と故人の冥福を祈るために1620年に建立された。朱丹色塗りの山門にちなんで「あか寺」とも呼ばれる。開祖隠元(いんげん)禅師が中国より初めて日本に住持した聖地であり、眼鏡橋を架けた黙子如定(もくすにょじょう)禅師、近世漢画の祖逸然(いつねん)禅師など、そうそうたる中国高僧が住持したことでも知られる。第二次世界大戦中、長崎原爆投下で大きな被害を受けたものの焼失は免れ、当時の雰囲気を今に残している。 「大雄宝殿(本堂)」 は中国式建築で、柱や梁には巧緻な彫刻、氷裂式組子(ひょうれつしきくみこ)の丸窓、アーチ型の黄檗天井、大棟の瓢瓶(ひょうへい)(災害が振りかかると瓢瓶が開いて水が流れ、本堂を包み込むという意がある火除けのおまじない)など、日本建築とは異なり珍しい造りで、国の重要文化財に指定されている。和風建築様式の「鐘鼓楼」、日本一美しいと評され木魚の原型でもある「魚板」、1689年に密貿易を防ぐため一か所に定住させられた中国人専用の通用門「唐人屋敷住宅門」など境内には様々な文化財が残っている。