国の史跡に指定される数々の貴重文化財
12世紀初頭の平泉、藤原清衡(ふじわらのきよひら)による中尊寺の造営より遥か4世紀も前から存在していた「天台宗達谷西光寺」(てんだいしゅうたっこくせいこうじ)。その西側にある「達谷窟毘沙門堂」は、切り立った崖に建てられ、岩に抱かれるように建つ光景が異彩を放つ。その歴史は801年平安初期、この土地を拠点としていた蝦夷(えぞ)を坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が討伐した記念として建てられたことを始めとする。毘沙門天を祀り、堂は京都の清水寺を模して造られた。また、鞍馬寺に倣い108体の多聞天像が奉納された。しかし、二度の焼失の度に堂は再建されたが、多聞天像の多くは焼失、その中で現存する30体ほどが今でも毘沙門堂に納められている。堂の西側、崖の上部には岩面大仏・磨崖仏(まがいぶつ)が刻まれ、平安時代に作られた丈六不動明王像(じょうろくふどうみょうおうぞう)など貴重な史跡を保有し、境内全域が国の史跡指定として保存されている。
悪路王と坂上田村麻呂の英雄伝説の地
秘境の空気を持つ達谷窟毘沙門堂には、坂上田村麻呂にまつわる伝説が残る。昔、この場所に城を築いた悪路王(あくろおう)らは悪行を働き民衆を苦しめていた。ある日、京都より姫を誘拐し窟の奥に閉じ込めるが、逃走を図る。逃げようとする姫を滝で待ち伏せし捕え、長い髪を切ってしまった。悪路王による様々な暴力的な振る舞いを見かねた帝は、坂上田村麻呂に成敗を命じ、苦戦の後、毘沙門天の加護により勝利を収めたという。伝説となった話に登場する姫を待ち伏せていた滝は「姫待滝」(ひめまちだき)、切った髪を巨岩にかけ、その様子がカツラのように見えたと言われる「かつら石」は現存し近隣に残る伝説ゆかりの場所である。