東北最古、繁栄と破壊の歴史を辿った寺院
728年、天皇の勅命を受けた僧、行基(ぎょうき)が開山。平安時代には寺が整い、参道下の桂(かつら)の大木から湧く清水を霊水と崇め、古代における国内最北の仏教文化へ発展したと考えられている。14世紀には東北で勢力を拡大していた南部氏の保護を受け発展、17世紀、江戸時代には寺の再興、大修理を行い、27の末社を有する大寺院として隆盛を誇った。しかし、19世紀の仏教排斥運動「廃仏毀釈」により寺は激しく衰退。広大な土地は境内周囲のみを残し取り上げられ、文化財の破壊など、廃仏毀釈による国内最大の被害を被ったといわれている。1953年には業者により境内の杉の巨木1666本が無断で伐採された「霊木伐採事件」など悲劇が続いた。これらの事件が世間に与えた衝撃は大きく、寺の保存と復興を呼びかける機運が高まり、1976年、天台宗東北大本山中尊寺貫主今春聴(こん しゅんちょう)が特命住職を拝命、復興に着手した。その意思を継ぎ1987年、有名な女流作家、瀬戸内寂聴(せとうち じゃくちょう)が住職に就任し復興に力を注ぎ、岩手有数の寺院となる復興を遂げた。
数々の難を越え安置される貴重な平安仏
廃仏毀釈により多くの文化財が破壊される中、当時の檀家の人々により幾つかの仏像が持ち出され、隠されたが、土中に埋めたり、野ざらしのままで保管されるなど、厳しい環境の中に置かれた。しかし、素朴な中に温かい表情を湛え、厳しい時代を生き抜いて往時を伝える仏像は必見である。寺に安置される仏像59体のうち13体は平安時代に作られたものと言われ、行基作といわれる「聖観音立像」は、像表面の大部分をノミの痕を残して仕上げる「鉈彫」(なたぼり)という独特の手法を用いた最高傑作と言われる。